このお寺に120年程前(1897年)に稲田駅を作る事に尽力された鍋島彦七郎さんのお墓があると稲田御影石材史 (小林三郎著)に書かれていました。
お寺の門の外側にある御影石の柵には、鍋島由兵衛という方が施主となって明治18年(1885年)10月に竣工されたことが記されています。
(後日調べたところ、広島県尾道市出身であった彦七郎(旧姓吉田)は明治19年に上京し、九段下にあった石材問屋志石園で働いていた。志石園の経営者志摩万次郎に気に入られ彦七郎は、明治22年に鍋島由兵衛の長女艶子と結婚し、婿養子となったそうです。
志摩万次郎は利根川と江戸川の連絡水路である利根運河の掘削をする等の事業家であったが、代議士となり志石園の業務を彦七郎に譲った。
受け継いだ彦七郎は、九段下に石材問屋鍋島商店の店舗を構え、明治29年には稲田の石材の開発にあたったそうです。)
稲田で産出される白御影石は、その稲田駅から東京方面に行き、後には国会議事堂や日本橋、帝国劇場、国立博物館の表慶館、東京駅などに使われました。
稲田駅には「石の百年館」があり、近くには鍋島彦七郎について書かれた碑が建っています。
お寺の住職に拠ると現在は無縁墓となっているそうで、このままではいつか業者に頼んで墓仕舞いすることになるだろうということでした。
御住職に、墓仕舞いすることになったら一報頂けるようお願いして感應寺を後にしました。
感應寺についての記述が台東区のホームページにありました。→サイトを見る
以下、稲田石の輸送等に関わる略歴
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- 1889年(明治22年)1月16日 水戸鉄道により水戸-笠間-下館-結城-小山駅間が開業。
- 1892年(明治25年) 水戸鉄道は日本鉄道と社長等経営陣が同じだった為、また営業も委託していた事から日本鉄道に譲渡されその支線となった。
- 1895年(明治28年) 土浦から友部に海岸線(現在の常磐線)が延伸され、友部駅 – 水戸駅間は実質的にその一部となった。
- 1896年(明治29年) 鍋島彦七郎、稲田の採掘を開始
鍋島彦七郎が出資して買収した約1550坪を日本鉄道株式会社に提供。
石切場から駅までの輸送手段は当初は馬車を使用したが、人力によるトロッコ軌道が敷設される。 - 1897年(明治30年)6月5日 稲田駅が開業(翌年、旅客取扱が開始
- 1920年(大正9年)12月 茨城軌道株式会社が設立される。
- 1965年(昭和40年)トロッコ軌道が廃止される。(稲田石輸送が鉄道からトラック輸送に代わるまで使用された)
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